何かの本に書いてあったのだが、人生を80年と考えると、零歳から二十歳までの20年間と二十歳から八十歳までの60年と云うのは、同じぐらいの濃度&密度になるそうで、なんだか妙に納得したんだったんだった。
小学1年生の息子の日々を見つめていると、その濃度たるや半端じゃないもので、日々発見、日々新鮮、日々初体験の連続なわけで、そりゃ一日も格別に長いことだろうなと容易に推察できる。
それに比べて四十路後半の床屋のオッサンのエブリデイと来たらなんなの?である。それはもう尋常じゃなくスピーディーなわけで昨日と今日の違いも曖昧になっている。
でも、それは悪いわけではなくて、むしろ心地よくあったりもするのだけれども、出来たら年相応よりは老け込みたくないぜとは思う。
そういえば、色々新しいことにチャレンジしたり、日々何かしらを探究している人って若々しかったりするよな〜と思った。
私も、掘るとか探すとか探るとか大好物で、そう云うことに夢中になっていると時が止まっているように感じるのだけれども、本当に止まっているのかも知れないな〜なんて妄想してみた。
何処かへ出かける際、行きは長く感じたのに、帰りは随分と短く感じることがある。コレは人の脳が「もう経験したよね〜」ってことを省いているかららしいぜと誰かが言っていて、コレまたふむなるほどと納得した。
年を重ねると、経験ずみなことは増えるばかり。
だから、それらはもう織り込み済みなのよね〜ルルルラララと脳が流していると云うことか。日々の過ぎ去り具合が年々どんどん増しているような気がするのはそう云うことなのか。
少年時代に過ごした日々が果てしなく長かったように感じるのもそう云うことなのだ。
なるへそ。
さてと。
今日も明日も明後日も何かを探すでしょう。
そうそう。
店内BGMをPCから流す際に使用しているスピーカーが、ちょいと物足りないのよねと妻さんに話したら「コレなんていいんじゃない?」と最高に観力的な逸品を見つけてきてくれた。
妻さんもまた、日々探究心に溢れた人で、そのピンポイントのクリティカルヒット具合には毎度毎度感心させられるのである。
やるね〜
股旅。