そう言うことだったのか……

先日読んだ本によると、読みもしない本や、たいして開きもしない写真集や画集などが「積ん読(つんどく)」になっていることがままあるが、あれは全然問題ないとのこと。

実は出版社の研究所で作られた特殊なインクから秘密の電波が脳に直接発信されていて、それにより積んでおくだけでも本は読んだことになり、写真集や画集は鑑賞したことになり勝手に感性は磨かれるそうなので気にしなくても良いそうだ。

なるほどね…… な・る・ほ・どっ!

幼少時からずっとそんな気はしていたのだ。
ひょっとしてそうなんじゃないか?とは思っていたのだ。

今はそうならないように細心の注意を払っている “積みプラ”(作っていないプラモが積まれていくことね)。
あれも、なんだか気持ちが満たされているような気分になる。
レコードも然りだ。
そこにあることに意味がある。
所有しているということに意義があるっつーかなんちゅうか本中華。

一応言っておくが、さすがに特殊なインクで秘密の電波云々ってのは信じてはいないのでご安心を。

そして、数年前に手にした本を “積ん読” の牙城から取り出し読破したときの満足感&達成感。
あれはなかなか得難い高揚感のような気がしている。

かと言って、これを言い訳に “積ん読” の山を作ることはもうしない。
飽くなき好奇心を糧に、私はドシドシジャンジャン読むし観るし創るし聴くことを誓おう。

ただ、罪悪感とうしろメタファーの塊だった、あの山たちのことを少し肯定してくれた気がして嬉しかったのだ。

ケロケロ。

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